フランス映画の古典として知られる傑作群像劇。19世紀半ばのパリを舞台に、女芸人ガランスをめぐってさまざまな男たちが織りなす人間模様を、第1部「犯罪大通り」、第2部「白い男」の2部構成で描く。1840年代、劇場が立ち並ぶパリの犯罪大通り。パントマイム師のバチストは、女芸人ガランスを偶然助け、彼女に恋心を抱く。ガランスは俳優ルメートルや犯罪詩人ラスネールにも思いを寄せられていたが、誰のものにもならない。そこへ、同じくガランスにひかれる富豪のモントレー伯爵が現れる(第1部)。数年後、座長の娘ナタリーとの間に一児をもうけたバチストは、フュナンビュル座の看板俳優として舞台に立っていた。そんなバチストを毎夜お忍びで見に来る女性がいたが、彼女こそ伯爵と一緒になったガランスだった。ガランスが訪れていることを聞いたバチストは、ある時、居ても立っても居られずに舞台を抜け出すが……(第2部)。第2次世界大戦の最中、ナチスドイツ占領下のフランスで撮影だけで約2年の歳月をかけて製作された。監督と脚本は、ベネチア国際映画祭の監督賞を受賞した「霧の波止場」などを送り出してきたマルセル・カルネとジャック・プレベールの名コンビ。出演はジャン・ルイ、アルレッティ、マリア・カザレス。解放後間もないフランスで公開されて大ヒットを記録したほか、ベネチア国際映画祭特別賞などを受賞。日本では1952年に初公開。2020年10月、製作75周年を記念して「4K修復版」でリバイバル公開。
天井棧敷の人々評論(9)
ストーリーは二部構成で、簡単に言えば貧しさゆえに愛よりもお金をとった人々の悲しいラブ・ストーリー。ラブ・ストーリーといっても、今の恵まれた時代にあるものより、展開はリアルです。貧困の生活では、愛ですら権力や財力を前にすると、一瞬にしてかすんでしまうのですから。フランス映画の精神の原点は、この映画にあるような気がしました。ぎりぎりに追い詰められると、愛は必要条件の一つであるが、十分条件ではないのだ。そして、それが人生というもの。ということになるのでしょう。
モノクロ映画を見るといつも思うのは、画面の力がカラーよりもあるということ。それは時として吸い込まれそうなくらい危険なほどですが、本作のような重いストーリーでは何故かホッとする。マルセル・カルネ監督はじめ撮影に関わった人々の、画面の細部にいたる細部にまで心を砕いた跡がうかがえます。
画面に語る力を秘めた映画つくりをできる人は、この人とフェリーニ、タルコフスキー、そしてスピルバーグくらいでしょう。
だからと言って決して難しい作品ではありません。
とにかくドイツ軍によるパリ占領下に於いて非占領地に大セットを組んでパリの街中を再現し検閲を潜り抜けながら制作されてフランス演劇界の名だたる名優達や、反ファシズムの人達が総て結集して完成に漕ぎつけた事こそが奇跡と言える。
内容的には今観ると単なる男女の痴話喧嘩と言われそうだけれど、当時ドイツ軍に占領されていてパリ市民達が味わえ無かった芸術・芝居・音楽等の餓えを一気に解消させたのは間違いない。
勿論それだけでは無くて普遍的な男女の縺れを巧に描いてある為に世界中から愛されているのだろう。
しかしながら、あまたの映像作品の中に、様々な恋愛模様や人生を見てきた、現在の観客の目からみれば、4時間という上映時間を使って表現するには、少し冗長な印象を抱かざるを得ない。
ただし、セットの中を縦横に動き回るカメラワークが生み出す映像と、編集の妙は、スピード感があり、長い時間でも楽しむことができる。物語の筋を追うだけの現代の鑑賞者には退屈な作品でも、映画的な文法を心得、それを追うことのできる向きには、これぞフランス映画の原点という印象が残るだろう。
そうは言っても、やはり4時間は長い。長いからこそ、何度も繰り返し見る必要がありそうだ。
傑作ということだが、当初はつまらなかった。長い時間をかけて一体何を描きたいのだろうかと思った。劇中劇をただ流し続けたりして無駄な場面が多すぎるのに、登場人物の心理や事情といった肝心の場面が抜けていたりする。
これで後半になってこんな愛とか人の生き方の話になってくるとは思わなかった。これならば前半でどのように登場人物が愛を感じるようになったのかといった、登場人物の感情などの具体的なことをもっと描かないといけない。彼らの背景についてよくわからないままに話が進展してしまうから、思い入れも薄くなるし共感も少ない。後半になっていつのまにそんなに人生がもつれていたのかと驚いた。その人間模様が面白かったのに、それが前半で描けていないのが駄目。