フランス現代文学を代表する女性作家アニー・エルノーが、自身と既婚年下男性との愛の体験を赤裸々につづったベストセラー小説を映画化。パリの大学で文学を教えるエレーヌは、あるパーティでロシア大使館に勤める年下の男性アレクサンドルと出会う。エレーヌは彼のミステリアスな魅力に強く惹かれ、瞬く間に恋に落ちる。自宅やホテルで逢瀬を重ね、アレクサンドルとの抱擁がもたらす陶酔にのめり込んでいくエレーヌ。今までと変わらない日常を送りながらも、心の中はすべてアレクサンドルに占められていた。気まぐれで妻帯者でもあるアレクサンドルからの電話をひたすら待ち続けるエレーヌだったが……。俳優としても注目を集める世界的バレエダンサーのセルゲイ・ポルーニンがアレクサンドル、「若い女」のレティシア・ドッシュがエレーヌを演じた。2020年・第73回カンヌ国際映画祭のオフィシャルセレクション作品。
シンプルな情熱評論(20)
まさに、ただ求め合うな内容です。生活も優先順位までも狂わせる欲望をドロドロせずに見せてます。ですからこんなにもセックスシーンが多いのに、背徳感も退廃感、猥褻感感じないんですよね。なぜそれを選んだか?の心情描写が少ないからなんでしょうかね?ま、良し悪しですが。
僕は心情を描いて欲しかったなーって思います。これが薄いから、「私、昔こんなイケメンとヤリまくってさー、相手もさー、なんか私のこと忘れられないみたいでー」と、昔のイケイケ話をカッコよくお洒落な自慢話として聞かされてる気がしちゃいました。
「お前、自分のこと肯定しすぎ!」って心の中で突っ込みながら聞いてる感じでしたね。
あっ、でもそれだから最後の方で男女双方が交わす、気持ちを伝えるセリフが効いたかな?、、、けど、カッコつけてるよなーとは思いますが(笑)
ま、これはこれでよいのかな?思い出話っぽいし。
セックスシーン多いのは構いませんが、城定監督のピンク映画のように、心情をその行為も含みで表して欲しかったなー。
多分、感性の違いかな~。あんまり心揺さぶれられなかった。
女性の人生の開放に切り込んだ作品!みたいな説明書きを鑑賞前に見てしまったからだろうか。「尻軽でいい」と強がりを言いながら、ただ一人の男性を待ち続ける主人公。
若い男性に求められて舞い上がる気持ちも分かる。先の無い関係だと頭で割り切ってても、心で割り切れないのも分かる。
でも、要所要所で差し込まれるセックスシーンでモヤっとする。
いや、分からなくは無いんだけど!!!
二人とも美しい肢体の持ち主だしね。いやらしさだけではない、いつ関係が壊れるとも限らない儚さも感じとれるけど、、、うーーん。
結局は、”彼”と奥さんの事についてガンガン聞いていくし、”彼”に依存しすぎて職場に電話するようになるし、連絡取れなくなった後はめちゃくちゃ病んでるし。これが人生の開放か?!!って思っちゃった。ただ、主人公の友人が「普段フェミニストを気取ってたって、好きな男の前では可愛くあろうとする。(うろ覚え)」みたいな事言ってて、恋愛上の気持ちって日本も海外もあまり変わらないのかなと思えた。
理解できる部分もあったし、最後はキレイにお別れしたのは良いと思うけど、なんだかなぁ~という気持ちしか沸かない作品。
セックスシーンの長い映画だけど、例えば今年観た『愛のコリーダ』などと比べてもそれほど辟易する感じはなく、むしろ好意的に見られた。その差はなんだろうと考えたが、描写の違いかな。淫靡に撮るか優美に撮るかという、これは受け取る側の感性の差でもあるからわたしにとってはそう受け取れたというだけのことなんだけど、そういう部分が良かったのではないかと思う。
それにしても、他の生活全てを抛ってでも注ぎたくなる情熱って素晴らしいなと思うし、そんな恋愛をしてみたいという羨望すら感じる。そんないい男、どこかにいないかしら。。
主演のレティシア・ドッシュは、以前「若い女」で崖っぷちに立たされた若くない「若い女」を演じ、うまい役者さんだなという印象を持っていたので、今回はつらくて切ない女心をどんなふうに表現してくれるのか楽しみに行った。
異国の異性とひょんなことから出会って、どうしようもなく惹かれてしまうということはよくあること。海外在住時、そんな男女をたくさん見てきました。言葉も文化も違うから、相手がよく理解できない、でも、だからこそなのか、その外見や仕草、声、相手の存在そのものに強く惹かれてしまう。そしてそれは執着となってしまう。
映画では、ほぼ情事のシーンばかりですが、原作では会えない時間に彼をひたすら思う気持ちを綴ったものだそうですね。あえて、まったく違う側面から映像化したことが面白いと思うし、とても美しい画に仕上がっていた。
女性がみてうっとりするような官能映画じゃないかな(もちろん男性にも体験してほしい)。と同時に、心理的には恋の痛みをヒリヒリと感じさせる、ホロ苦い大人のドラマなのです。
よくある(と言っては唯一無二の体験をした作者本人には失礼ですが)男女の出会いと別れを描いて、その筆力でベストセラーにしたという原作を読んで、恋愛の甘さと苦しみを2度味わいたいと思います。
立ち去る者だけが美しい
残されて戸惑う者たちは
追いかけて焦がれて泣き狂う
1977年(昭和52年)にリリースされた中島みゆきの「わかれうた」の一節である。古い感覚や価値観のことを「昭和だ」といって否定されたり揶揄されたりすることがあるが、中島みゆきの歌に限っては、古さを少しも感じない。ましてや「昭和だ」といって否定されることは決してないと思う。時の風俗や流行り廃りを超えたものがあるからだ。
ヒロインのエレーヌを演じたレティシア・ドッシュは2018年に日本公開された映画「若い女」ではなかなか見事な演技を披露していた。「若い女」では、価値観の揺れ動く時代にあって、変わってゆく価値観に流されつつも、前向きに強く生きていく女性を演じたが、本作品ではシングルマザーにもかかわらず恋に堕ちて見境を失くしてしまう中年女性を好演。
当方は男なので、女性の性欲がよくわからないが、恋多き女性とそうでない女性がいるのは確かだと思う。男性が一様に性欲があるのに対して、女性は性欲の強い人とそうでない人、性欲がまったくない人がいる。性欲の強い女性が恋多き女性なのだろう。そして恋多き女性は、性欲が満たされる間はひとりの男に入れあげ、その男から満足が得られなくなったら別の男を求める。男性は複数の女性と同時に関係を持つことが平気だが、女性の殆どはそうではない。浮気をするのは男性の割合が多いのはそのせいだ。妊娠しないからだろう。
本作品のエレーヌはかなり性欲が強い方で、オルガスムスのためには予定も変更するし、息子のことも放ったらかしにする。アレクサンドルはそれを解っているから、じらしてエレーヌの感度を上げる。逢うのもじらすが、性交時も、キスをしたいエレーヌをじらして唇をなかなか合わせない。エレーヌはキスを求めて口走る「Je t'aime, Je t'aime」。アレクサンドルはそんなところに満足するが、そぶりも見せない。恋のテクニックだけがアレクサンドルの矜持なのだ。スケールの小さい男である。
恋は性欲だが、同棲や結婚をして人生を共にするには相手への尊敬が必要である。男を尊敬できない自分に気づいたとき、未来への展望は幕を閉じ、同時に恋も終わる。男は女が自分から離れようとしていることに気づいて、漸く、尊敬される男を演じようとするのだが、時は既に遅い。
中島みゆきの歌詞はいろいろな受け取り方があるだろうが、立ち去る男と追いかける女という図式ではなく、立ち去る女がいる一方で、残される女たちがいるという意味だと思う。女が立ち去るときは、相手への尊敬を失くしたときだ。尊敬できない相手とのつき合いをやめるのは潔い。だから美しい。尊敬できるかどうかわからないが、与えてくれるオルガスムスがほしい女たちは追いかけて焦がれて泣き狂うという訳だ。だからみっともない。
中島みゆきが25歳のときの歌である。中島みゆきは自分もみっともない女たちのひとりとしてこの詞を書いたのだろう。本作品のエッセンスは中島みゆきの歌詞に集約されているように思う。40年以上の時間の差と、日本とフランスという場所の違いがあっても、中島みゆきが看破した恋の真実は変わらないのだ。