巨大地震と津波、そして福島第一原子力発電所の事故をもたらした東日本大震災が起きた2011年3月11日からの5日間を、原発事故の真相を追う新聞記者を中心に、当時の政権や官邸内部、東京や福島で暮らす市井の人の姿を対比させて描いた。2011年3月11日午後2時46分。東日本大震災が発生し、福島第一原発は全電源喪失という事態に陥った。冷却装置を失った原子炉は温度が上がり続け、チェルノブイリに匹敵する最悪の事態が迫っていた。想定外の状況と情報不足で官邸は混乱を極め、市民たちは故郷から避難を余儀なくされていく。震災当時の菅内閣の政治家を全て実名で登場させ、当時の状況をリアルに再現する。東日本大震災から10年後となる2021年には、90分に再編集されたバージョンで再公開される(2016年公開版は130分)。
太陽の蓋評論(20)
社会派ものは一般に真面目すぎて退屈なものが多いが、本作は構成がよく練られており、話の起伏、展開が優れているため、2時間を超えるが退屈することは一切ない。アメリカ映画ではホワイトハウスを舞台にしたエンターテインメント映画が多いが、そのニュアンスに近い。ただし、それらのアメリカ映画とちがって、ヒーローは一人もいない。
時系列で話が進行することもあり、観るものの多くにとっては当時の自分がどうであったか、何を考えていたか、官邸発表をどのような気持ちを受け止めていたかを、当時の自分に戻ったかのように思い出すことになると思われる。
あの時は、東京ももう危ない、住めなくなるかもしれないという情報が飛び交い、多くの人が東京を離れ西日本に移動した。その時に抱いた、社会の前提となっている確固たるはずの足元がゆらいでいるような、今までに味わったこともないなんともいえない不安感、危機感を思い出した。
首相官邸と東電の迷走ぶりは、まるでコントのようだが、この両者のやりとりはほぼ事実に即しているとのことなので、事実は小説よりも奇なり、ということなのか。
反原発の人も、原発推進派の人も、左の人も、右の人も、真ん中の人も一度ぜひ見ていただきたいと思う映画である。
この映画の一番の価値は、当時の自分(の不安感、危機感)をリアルに思い出すことにあると思うから。
以前の名作「東京原発」のようにマイナーな映画で終わらせてはならないと思う。
政権は右肩上がりの夢を歌いはじめ、福島は『アンダー・コントロールされている』と世界に宣言して2020東京オリンピックを勝ち取った。
首相は 公の場で 『悪夢のような民主党時代』の象徴として震災の不手際を述べたが、東電への追求、原発に変わるエネルギー政策には 原子力ムラを忖度して、及び腰だった。
その時に、この映画を見た。 冷静に、あの時に起こっていたことを描写していた。
吉田所長等の苦闘に視点をおいた Fukushima 50 が英雄譚に印象が残ってしまうのに比べ、こちらでは 政府の危機管理はどうあるべきだったか? を問うている。
安倍~菅政権に連なる、閉鎖的な政権運営を 「他に変わる政党がないから、、」と支持している人々に 改めて、合理的と科学的な判断のチームがあった菅直人政権の再評価を促すだろう。
私は福島県伊達市に住んで、福島市で働いていて311に遭遇しました。現在は家族で「自主避難」、移住して札幌で生活しています。それ以前には双葉町で高校教師として生活していた事もあります。
だから、作中に登場する地元住民の心情も「イチF」従業員青年の心構えも、事故発生直後で地元にこそ情報が届かなかったいら立ちも、よくぞそこまで調べて描いてくれた、と感じました。
また作中に登場する、ネットで必死に情報を探す別の人物の姿は私自身と重なりました。
事故発生以来、相当な手間と暇とカネをかけて原発事故発生直後の状況を調べ、集めてきました。
政府事故調報告書、国会事故調報告書、東電報告書、民間事故調報告書、東電テレビ会議記録などの公開された記録報告。海外で書かれたものの翻訳物。当時の政府内外の政治家やメディア関係者の著作や講演。避難指示で避難した知人からの情報。テレビの各種情報やドキュメンタリー番組。週2回の統合本部記者会見記録。
そして、元生徒が事故原発で働き続けているという情報や映像。(某テレビ番組で、原発に取材に入ったタレントが元生徒に話しかけている所を見つけた時は、思わず目頭が熱くなりました。)
この映画が描いている官邸の混乱具合と、被災現地住民の混乱具合は、かなり事実に近いものです。地元住民の混乱は実際にはもっと過酷だったのですが。
官邸のマスコミの無力感も、ほぼ事実通りだったと思われます。
この映画の評価を下げる材料にはなりませんが、この映画でさえ描けなかった情報の偏りが、事故発生直後の日本にはありました。
テレビ局や新聞局、芸能関係者には、2011年3月12日時点で遠距離避難が推奨されたり、命令されたりしたことです。
この事実は、このままいけばおそらく闇に葬られます。
けれどこの映画のような、可能な限り事実に迫ろうとするものを作ろうとする努力を続ける人がいれば、いずれは明るみに出せるかもしれません。
この映画の最後で語られるように。
今も日本での原発事故は終わっていません。
首の皮一枚、偶然にこれまでの生活が続いているように思えているだけだから。
これがノンフィクションの映画化作品である。
原子力村の亡者たちはフクシマ原発事故に蓋をしようとしている。しかし、事実を実名入り映画という手法で再現したセミドキュメントタッチの作品は、社会がフクシマ原発事故を葬り去ったときに蓋棺事定の故事、永遠に事実の記録として残ることになり、そこに制作者の意図が読み取れる。
重いけれど観なければならない一作。 文責:松下 哲雄